gorira824の日記

この世で1番どうでもいいブログ

長かった冬から春までとはいかないけど

 

 

 

子供の頃は自分の趣味嗜好を否定されることが多く、好きなものを言うことにすごく恥ずかしさを持っていました。今は胸を張って言えるものもあればやっぱり少し憚られるものもあります。

 

好きなことを笑われるというのは私自身が笑われるということに等しくて。きっと当人たちはそこまで気にして言ってないんですけど、感じ方は主観でしかないので周りを気にするなというアドバイスは私にとって全く的がはずれていて。自分が恥ずかしい人間のような気がして常に劣等感に苛まれていて。

そんな思春期の苦しい苦しい時代は「卒業したら二度と関わらない赤の他人」とか「どうせいつかみんな死ぬ」のような自分で自分を救う言葉を脳内で何度も再生してぎりぎりで生きてきました。

 

幼い頃から寂しいという感覚があまりありませんでした。お母さんが帰ってこなくて寂しいとか、お父さんが遊んでくれないとか、友達が仲間に入れてくれないとか。

これは私が家族から普通以上の愛情を与えて貰い、その土台の上に成り立っていた恵まれた感覚だということをわかっているのですが、苦しんでいた元にあったのは"1人を好むことはおかしいこと" "1人でいるのは可哀想で恥ずかしいこと" という外部からの視線です。

 

みんなで外で遊ぶのはそんなに偉いんでしょうか。私は1人できれいなものを見てそれを描いたり文章にしているだけで幸せだったのに。

大人数でわいわい騒ぐのは正しいことなんでしょうか。本を読んで考え事をするのはそんなに気味の悪いことなんでしょうか。私は私の幸せのために時間を使っていたのに。誰にも迷惑をかけていないのに。

子供の頃は多数派が正義で学校や家庭が世界の全てで、少し広い場所に出てようやく自分にとっての幸福感や生き甲斐を他人に提案する残酷さに気づきました。やっと大人になれた。息苦しくて生きづらい人生だった。

 

「いつも楽しそう」と言われます。それは不幸だと思われないよう細心の注意を払っているからです。可哀想だと思われることが一番苦しいですから。

楽しそうなのって良いことなんでしょう。机に座って1人でいたら暗いとか気持ち悪いとか言われるんでしょう。そこでどんなにきれいなものを作っていても。パッケージばかり重視して中身を見ることもしない。無神経って本当に残酷です。

明るく楽しく健康的に見えていたら攻撃されることもないので、目くらましにそうやって生きてきました。周りに作られた明るさのほうがよっぽど気持ち悪いのに。

 

最近はもういい意味でどうでもいいです。わからなくて当然です人の気持ちなんて。「相手の気持ちを考えなさい」という言葉がありますけど、私からするとそれこそ人の気持ちは考えたらわかるものだと信じてやまない狂った人間の発想です。

「話し合えばわかる」もそう、わかりませんよ。しかもそんなに簡単に胸の内なんて話せません。だって自分が何を思っているか自分でもわからないのにどうしてそれを言葉にできるんでしょう。

 

人間なんて人間のことわからなくていいんです。なんとなく好きで、なんとなく居心地いい人とだけ過ごしてれば。理由があって成立している関係は理由がなくなると簡単に破綻します。言葉にできる理由は友情よりも打算に近いと思います。

別に破綻してもいいんですけど、壊れても悲しくないもののために自分が費やしてきた労力や時間って振り返ると虚しくなりませんか。浜辺で砂の城を作ることはその時間が楽しければ尊いですが、そうでなければ作らないほうがいいです。崩れるだけで何も残らないので。私は作りたくない砂城を作るのに手が汚れるの嫌でした。洗ってる時間はもっと虚しい。だからもう作りません。

 

他人の常識の中で生きるのは他人の人生を生きてるのと同じになってしまいますから、自分は自分の人生をしっかり生きたほうがいいです。地に足をつけるって社会で自立することではなくそういうことだと思います。自立するために生きるんじゃなくて、生きるのに自立が必要だから仕事するんです。そこを忘れると人って平気で病みます。世間体なんて半径50メートルくらいの話。

 

 

かなりの乱文で読みづらくてごめんなさい。人一倍嫌われることが苦手で人一倍人目を気にして生きてきた私の悔恨でした。

きっとこれからも気にするけど、少しずつ処世術を身につけていきたいです。起きることは変えられなくても感じ方は変えられると思うので。